リーはリッチモンドの防御を固めて一月余もマクレランの進行を止めた。ジェイムズ川の南岸では南のピーターズバーグまで防御線を布いた。新しい防御線の長さは約30マイル (50 km)にも及んだ。リーは防御線を構築し次の攻撃を準備する時間を稼ぐために、小部隊の数をより大きく見せる作戦を繰り返した。マクレランは、6月13日から15日に南軍のJ・E・B・スチュアート准将が北軍の周りを騎兵で大胆に(他の場合なら意味がない)乗り回す動きで自信を失いかけていた。 リーが攻撃に転じて7日間に及ぶ戦いを仕掛け、マクレランをジェイムズ川沿いで安全だが脅威も無くなる場所まで押し戻した。 七日間の戦いの最初の会戦は6月26日、メカニックスビルあるいはビーバーダム・クリークの戦いであった。リーはマクレランの陣地がチカホミニー川を跨いでいるのを見て取り、細かく分析して勝てると思った。リーは北岸にいるマクレラン軍の右翼を攻撃し、反撃されて大きな損失を蒙った。戦術的には北軍の勝利だったが、戦略的には壊走のはじまりであった。マクレランは南東に後退した。 6月27日、リーはゲインズミルの戦いで攻撃を続けた。これは南軍としては南北戦争の中でも最大規模の攻撃になった(1864年のコールド・ハーバーの戦いでもほぼ同じ場所で戦闘があり、損失も同じくらいであった)。攻撃側の連携がうまく行かず、北軍は終日持ち堪えたが、最終的にリー軍が戦機を掴みマクレラン軍を再度後退させた。マクレラン軍はジェイムズ川沿いのハリソンズ・ランディングで基地を確保する方向に動いた。 6月30日のグレンデイルの戦いでは流血戦となり、南軍は3個師団が集結してホワイト・オーク・スワンプに撤退する北軍を追った。そこはフレイザーの農園近くであり、戦いの別名はフレイザー農園の戦いとなっている。このときはストーンウォール・ジャクソンが無気力な動きを示したために、リー軍は北軍がジェイムズ川に行き着く前に分断する最後の機会を捉えそこなった。 七日間の最後の戦闘は7月1日のマルバーンヒルの戦いであり、南軍が向こう見ずな攻撃を繰り返し、北軍は巧みな大砲の配置で堅固に守った。この徒労に終わった戦いでリー軍の損失は5,000名に達した。 七日間の戦いで半島方面作戦は終わった。マクレランは北軍の砲艦の保護が可能なジェイムズ川まで無事に撤退した。ポトマック軍は8月までそこに留まり、リンカーンの命令で第二次ブルランの戦いに備えるために撤退した。マクレランはポトマック軍の指揮官に留まったものの、リンカーンは7月11日に以前マクレランが勤めていた総司令官の地位にヘンリー・ハレック少将を指名することで、その不快を示した。 両軍の損失は大きかった。リーの北部バージニア軍は七日間の戦いに投入した9万名以上の戦力のうち、およそ2万名の損失を蒙り、マクレラン軍は105,445名のうち、ほぼ16,000名の損失となった。 半島での緒戦の勝利で戦争を早く終わらせられると言われていたが、北軍の士気はマクレランの撤退で崩壊した。大きな損失とリーの気の利かない戦術行動にも拘らず、南軍の士気は急上昇し、リーにとっては北バージニアおよびメリーランド方面作戦でその攻撃的な戦略を続ける励みとなった。 リーは半島でマクレラン軍に対して成功した後で、ほとんど攻撃的な作戦を展開し続ける2つの方面作戦を始めた。リッチモンドを脅かしていた北軍を打ち破り、北へ進軍してメリーランド州に入った。 リンカーン大統領はマクレランの失敗に反応して新しく結成されたバージニア軍の指揮官にはジョン・ポープを指名した。ポープは西部戦線で幾つかの成功を収めており、リンカーンはマクレランよりも好戦的な将軍を求めた。バージニア軍は3軍団で総計5万名以上の勢力だった。マクレランのポトマック軍のうち3軍団は後に戦闘の際に付け加えられた。2個歩兵軍団に2個騎兵連隊が付けられたが、中央の管制が及ばないようになり、作戦実行段階ではマイナスの効果しかなかった。 ポープの任務は2つの目標を果たすことだった。ワシントンとシェナンドー渓谷を守ること、および南軍をマクレラン軍から引き離し、ゴードンスビルの方向におびき寄せることだった。ポープは後者の任務を果たすために騎兵隊を派遣してゴードンスビル、シャーロッツビルおよびリンチバーグを結ぶ鉄道を破壊させようとした。その騎兵隊の出発が送れ、ストーンウォール・ジャクソンが14,000名の部隊でゴードンスビルを占領しているのを発見した。 リーはマクレランが株 島においてそうであったような脅威ではなくなったと認識し、リッチモンドに直接防衛軍を置いておく必要性を感じなかった。このことで、ジャクソンをゴードンスビルに移して、ポープ軍を食い止め鉄道を守ろうと考えた。リーはもっと大きな作戦があった。北軍はポープ軍とマクレラン軍に分かれており、その連携も取れていないと見えたので、マクレランに注意を向ける前にまずポープ軍を潰そうと考えた。ノースカロライナのアンブローズ・バーンサイドの軍隊がポープの援軍のために船で向かっていると思われたので、それが到着する前に即座の行動をとることを望み、A・P・ヒル少将に12,000名の部隊を付けてジャクソン軍に合流させ、一方でマクレランの気を逸らせて動けないようにしていた。 7月29日、ポープは幾つかのipo をシーダー山の近くに陣取らせ、そこからゴードンスビルを襲わせようとした。ジャクソンは8月7日にカルピーパーまで前進し、ポープ軍の残りが集結する前にポープの1個軍団への攻撃を望んだ。8月9日、ナサニエル・バンクスの軍団がシーダー山の戦いでジャクソン軍を攻撃し、初期の優勢を勝ち得た。南軍もヒル軍が反撃してバンクス軍をシーダー・クリークを越えて撤退させた。この時までにジャクソンは、ポープの軍団が集結しており、各個撃破しようというジャクソンの作戦が難しくなっていることを理解した。ジャクソンは8月12日までそこに留まり、ゴードンスビルに引き返した。 8月13日、リーはジェイムズ・ロングストリート少将の軍をジャクソン軍の援軍に送り、翌日さらに2個旅団を残して他の全部隊を派遣した。このとき、マクレラン軍が半島を去ったことを確認できていた。リー自身は8月15日にゴードンスビルに到着し指揮を執った。リーの作戦はマクレラン軍が応援に駆けつける前にポープの軍を破ることであり、ポープ軍の後方の橋を落としておいてポープ軍の左翼と後方から攻撃を掛けようというものだった。ポープ軍はラッパハノック川の線まで後退した。ポープは北軍の騎兵による襲撃で南軍の命令書の写しを奪っており、リーの作戦に気付いていた。 8月22日から25日にかけて小競り合いが続き、ポープ軍は川沿いに釘付けになっていた。8月25日までにポトマック軍のうち株 が半島から駆けつけてポープ軍を補強していた。リーは敵が増強され勢力的に劣勢になった状況に対し、新しい作戦としてジャクソンとスチュアートに全軍の半分を任せてポープ軍の側面に迂回させ、その通信線であるオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道を襲わせようとした。ポープ軍は後退を強いられ、移動中弱くなったところを叩けるというものだった。 8月26日の夕方、ジャクソン軍はポープ軍の右翼を迂回し、ブリストー駅で鉄道を破壊してさらに進軍し、8月27日の払暁にマナサス分岐点にあった北軍の大量の軍需物資を捕獲して破壊した。この急襲によって、ポープ軍はラッパハノック川に沿って急速に撤退させられることになった。8月27日から28日に掛けての夜、ジャクソンは第一次ブル・ランの戦場まで進軍し、そこでまだ工事の終わっていない鉄道路盤の背後に陣を布いた。ロングストリートの部隊はサラフェア・ギャップを通ってジャクソン軍に合流し、リー軍の2つの翼となった。 ジャクソンはポープ軍を戦いに引き込むために8月28日に資産運用 の前を通り過ぎようとした北軍の1隊に攻撃を命じ、第二次ブルランの戦いが切って落とされた。この戦いは北バージニア方面作戦の行方を決するものになった。戦闘は数時間続き、手詰まり状態になった。ポープはジャクソン軍が罠に嵌ったと考えるようになり、全勢力を集中させてジャクソン軍に対抗した。8月29日、ポープは未完成の鉄道路盤に沿ったジャクソンの陣地に数回の特攻をさせた。その攻撃は両軍ともに大きな損失を蒙ったうえで撃退された。正午、ロングストリート軍が戦場に到着し、ジャクソンの右翼に着いた。8月30日、ポープは再度攻撃を掛けさせたが、ロングストリート軍の到着を知らないように見えた。南軍の大砲攻撃が集中して北軍の攻撃部隊を壊滅させ、ロングストリートの右翼軍28,000名が一斉攻撃をかけた。これは南北戦争でも最大の同時大量攻撃だと言われている。北軍の左翼が潰されブルランまで後退した。北軍の後詰部隊の行動で第一次ブルランの戦いのときのような惨事は避けられた。それでもポープ軍のセンタービルへ向けた撤退は大慌てだった。翌日、リーは追撃を命じた。 ジャクソンは大きく側面を回りこんで北軍の退路を断とうとした。9月1日、ジャクソンは1個師団を送ってシャンティリーの戦いで北軍の2個師団と戦わせた。南軍の攻撃は激しい嵐の間の戦闘で止められた。ポープは自軍がまだ危険な状態にあることを認識し、ワシントンまでの後退を命じた。 メリーランド方面作戦、9月3日 - 9月15日, 1862年.リーは、この春から夏にかけて自軍の損失は大きかったものの、次の大きな挑戦である北部への侵略の準備が出来ていると判断した。その目標は北部の主要州であるメリーランド州とペンシルバニア州に侵攻し、ワシントンの補給線であるボルチモア・アンド・オハイオ鉄道を遮断することであった。リーは自軍への補給が必要であり、バージニアとは異なり北部の農場は戦争の影響を受けていないことを知っていた。また北部の士気を衰えさせることを望み、侵略軍が北部の中で大混乱を起こせば、特に奴隷を保持する州であるメリーランド州での内乱を招く可能性があるので、リンカーンは停戦の個人向け国債 に出てくると考えていた。 北バージニア軍はポトマック川を越えて、9月7日にメリーランド州のフレデリックに到着した。リーの具体的な目標はハリスバーグに向けて進軍し、北東部の東西を結ぶ鉄道を遮断して、続いてフィラデルフィアのような東部の主要都市に対する作戦行動を行うと考えられた。侵略の報せは北部でパニックを引き起こし、リンカーンは迅速な対応を取る必要性に迫られた。マクレランは半島から帰還して以来軍事拘留所に入っていたが、ワシントン周辺の全軍の指揮に復帰させリー軍への対処を命じた。 リーは自軍を2つに分けた。ロングストリートをヘイガーズタウンに派遣し、一方、ジャクソンにはハーパーズ・フェリーにある北軍の武器庫の奪取を命じた。それはシェナンドー渓谷を通じてのリーの補給戦を確保する意味もあった。ハーパーズ・フェリーは実質的に防御のしにくい魅力のある標的だった。マクレランはワシントンに対し、ハーパーズ・フェリーを明け渡してその守備兵を自軍に吸収する要請をおこなったが、それは拒絶された。ハーパーズ・フェリーの戦いでジャクソンは町を見下ろす高台に大砲を据え付け、9月15日に12,000名以上の守備隊を降伏させた。ジャクソンは町の占領にはヒルの師団を残し、自軍の大半を引き連れてリーの本体に合流した。 マクレランはその87,000名の軍隊を連れてワシントンを出たが、進軍は鈍く、9月13日にフレデリックに到着した。そこで2人の兵士がリー軍の詳細な作戦計画の写し、将軍命令書第191号が3本の葉巻を包んでおき忘れられているのを発見した。その命令書はリーが軍を分けて地理的に分散した位置に置くことや、それぞれの攻撃目標を孤立させて打ち破ることを詳細に示していた。マクレランは18時間待ってこの情報を利用することに決めたが、その遅れがチャンスを失わせることになった。その夜、ポトマック軍はサウス山に向けて移動した。そこには北部バージニア軍の一部が山を抜ける道を守って待ち構えていた。9月14日のサウス山の戦いで、南軍の防衛隊は数に勝る北軍に蹴散らされ、マクレランはリー軍が集結する前に撃破できる位置に達した。